2012年6月21日木曜日

■放射性廃棄物の受け入れはお金で解決できる?――マイケル・サンデル教授の「民主主義の逆襲」


放射性廃棄物の受け入れはお金で解決できる?――マイケル・サンデル教授の「民主主義の逆襲」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120607-00000020-zdn_b-bus_all
6月7日(木)9時58分配信 誠 Biz.ID


5000人が白熱した特別講義

 ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』の筆者で、米ハーバード大学教授のマイケル・サンデル氏。5月28日の特別講義「ここから、はじまる。民主主義の逆襲」での様子を伝える。前回の「レディー・ガガのチケットと病院の予約券、許せるダフ屋は?」に続いて今回は、放射性廃棄物の受け入れ問題などについて講義した。

●有名大学への入学権はお金で売り買いしていい?

サンデル さて、続いては皆さんが大学の経営者だった場合の話をしましょう。あなたの大学は優れた学生を輩出し、多くの受験生が入学したいと思う有名大学です。しかし資金難に苦しんでいました。そこで次の質問です。

優れた大学経営のためにお金を使いたいので、入学の権利の10%を最もお金を払った人から順に与えるというアイデアを思い付きました。裕福な親を持った学生達が寄付金をふんだんに払ってくれるなら、入学させるというものです。このような市場のメカニズムの使い方、そしてエリート大学への入学の権利を売り買いすることについて、あなたは賛成ですか? 反対ですか?

 サンデル氏の講義は、単純に授業を聴くのではなく、ある問いに対して受講者に答えを考えさせながら進んでいく。入学の権利が売り買いできることに賛成の人はパンフレットの白色の面を、反対の人は赤色の面を掲げて意志を示した。サンデル氏は会場を見渡すと、こう話した。

サンデル やはり意見が分かれていますね。反対意見の方が多いようですが、賛成意見の人もかなりいます。ではまず反対意見の人から、反対とする理由を聞いてみましょう。

男性(反対) 僕が反対する理由は、裕福な家庭で寄付金が出せるからといって10%の人を集めると、残り90%の一般入試で入った人に不公平だと思ったからです。

サンデル 90%の学生、豊かな両親がいなくて入学権利をお金では買えない人にとって不公平だということですね。でも競争で、入試で受かれば入学できますよね? そうじゃありませんか?

男性(反対) そうなのですが、入学後の環境といった形でも「あの人は寄付金を出したから入れたんじゃないか」とうわさが立つ可能性もありますし、学内の問題も出てくると思います。

サンデル 大学が10%の入学枠のことを公表しなかったらどうでしょうか? 「あなたは寄付金を払って入学した学生だから違った色の服を着てこい」のような要求をしなかったとしたら?

男性(反対) 確かにその通りですが……。難しい質問です。

サンデル 分かりました。ではお金で入学を許可することを構わない、それは正しいと思う人の意見も聞いてみましょう。

マサコ(賛成) もしその10%の人たちによって寄付金が入れば、大学はもっと良い教授を採用できて、90%の人たちにもメリットがあります。また、その10%の人も十分に優秀でなければ卒業できないとしたら、両方にとってWin-Winの状況になると思うんです。教授にとっても、優秀な学生にとっても、そして10%の学生が卒業できればその人たちにとってもメリットです。

サンデル お名前は? マサコですね。今マサコが言ったのは、大学が10%の分のお金を手に入れたらどういうことができるのか、入試で入った人たちにもメリットにもなるという話でした。寄付金によって余分にお金が使えることで、大学は有名教授を採用できて、みんながそのメリットを享受できるということです。ではどなたか、このマサコの意見に反論してくれる人はいますか? 彼女を説得できるか、直接マサコに話しかけてみてくださいね。

●マサコ、君は間違っているよ

ケンジ(反対) マサコ、君は間違っているよ(笑)。お金が一番大事だと考える人が多すぎる。10%の学生に、両親がお金を払えば入学を認めるというようなことは、私は認めてはいけない。それは、学生にお金が大事だというメッセージを伝えてしまうからです。大学がそういうことをしてはいけません。

サンデル でもお金は大事でしょ? 大事じゃないのかな?

ケンジ(反対) ある程度までは、大事だと思います。

サンデル なるほど。でもマサコが言ったように、大学はそのお金をいい目的のために、全員のためになるように使えるんですよ? あなたの名前は? ケンジですね。ではケンジ、あなたは私のこの意見にどう答えますか?

ケンジ(反対) 一部はその通りかもしれません。たださっきも言ったように、考え方として、お金で買ってはならないものまで買えることを学生に伝えてしまいます。例えば教授です。これは学生にとって非常にマイナスの影響を与えると思います。

サンデル ではマサコは今のケンジの意見にどう答えますか?

マサコ まず、お金は大事です(笑)。私はお金そのものではなく、お金が夢をもたらすことが大事だと思います。お金で積極的にならないと、その機会を失ってしまいます。今回の例で言えば、いい教授の講義が聴けるというように夢がなくなってしまうじゃないですか。

ケンジ いや、その意見には僕は反対です。というのも、今の世の中は環境よりも経済が優先されている。だからこそこうした体たらくな世界になってしまっていると思うんです。ですから人類がお金にどれほどの重要性を与えるのか、コペルニクス的な発想の展開をすべきです。環境の方が経済よりも大事だと変えるべきです。

●「裕福な学生の寄付金を貧困な学生の奨学金に」に納得できる?

サンデル マサコにちょっと提案をしたいと思います。こう主張すれば、ケンジも納得するかもしれませんよ。ちょっと私が助けてあげましょうか。

 例えば、集めた寄付金は新しい教授を雇い入れるために使うのではなく、優秀な学生、特に貧困な家庭で育った優秀な学生に奨学金を与えるのはどうでしょう。つまり裕福な家庭の学生は寄付金で入学し、そのお金で20人、成績は優秀だけど貧しい学生に奨学金で入学してもらうんです。これならばどうでしょう? その主張をしたらケンジは納得するでしょうか?

ケンジ(反対) その方法であれば、10%という寄付金を使わなくても税金という良い手段があるわけです。あるいは福祉政策というのもある。高所得者の税金を高くすれば、そのお金で貧しい世帯の学生の授業料に当てられます。すなわち直接的なお金の取引でなくてもいいと思うんです。

サンデル では民間の私立の大学だったらどうですか?

ケンジ(反対) 同じです。

サンデル 私立の大学でも、市民に税金をかけて、奨学金を学生に与えるんですね。分かりました。マサコとケンジに感謝します。

●「成績優秀なら50ドル」はありかなしか

サンデル さて、今回の議論でもお金の役割について意見が分かれていました。お金の対象となっている高等教育へのアクセス、そしてそれ自体をお金で売り買いすることで価値が損なわれるかどうか、です。

 実際、市場メカニズムを教育に使うのは、成績があまり良くない学生の動機付けをする試みとして一部で行われているんです。米国の多くの学校区域で、貧しい家庭の生徒のやる気を引きだそうとして、現金のインセンティブを使っています。

 つまりこうです。テストで高い点数を取った生徒に対し、成績がAであれば50ドル、Bであれば40ドルを与えるのです。これはニューヨーク、シカゴ、ワシントンD.C.、そしてダラス(テキサス州)でも試みられています。実際にどうなったか、それは後ほどお答えします。

 まずは似たような例の話で、皆さんに質問をしてみたいと思います。

あなたはある学校区域の教育委員長です。地域の生徒に現金でインセンティブを払うことで、よい成績を取ろうという気持ちや、もっと本を読もうという気持ちにさせよういう意見がありました。これは検討に値しますか?

 サンデル氏は再び、会場の聴衆に赤と白のパンフレットを掲げさせた。

サンデル やはりかなり半々近くに意見が分かれていますね。反対が大多数のようですが、検討に値する、賛成という人もかなりの数がいます。まずは反対意見の人に聞いてみましょう。なぜ反対意見なのですか?

ミツヒロ(反対) そうですね、お金は確かに大事で、貨幣経済が成り立っている中ではお金が常に身近にあると思います。けれど、あくまでもお金は自分の外にあるものであって、自分の能力や内側にあるものではないと思うんですね。本を読むとか能力開発においては、自分の内側のモチベーションが大事です。例えばサンデル教授みたいに面白い講義をするとか、そういうことが大事なんです。

 本を読むことでお金をあげるというのは「何かをすればお金がもらえるのが当たり前だ」という潜在的な意識付けになってしまい、むしろ教育的にはマイナスだと思います。だから反対です。

サンデル あなたのお名前は? ミツヒロですね。ミツヒロは生徒に「学習をしたい」「読書をしたい」という内なる動機付けを狙うべきであって、お金のインセンティブ(お金を払うこと)で間違った教育になることを心配しています。この意見が違う、反論したいという人いますか? どうぞ。

リサ(賛成) 私がお金のインセンティブがいいかなと思ったのは、きっかけは何でもいいから、本を読む面白さに目覚めれば、それでしめたものではないか、ということです。常にお金がモチベーションではダメだと思いますが、家のお手伝いのようにお金をもらえるから必ずやるんではなくて、お金をもらえるという市場のメカニズムは知りつつ、自発的にしようと目指していけばいいと思います。

サンデル お名前は? リサですね。ではリサ、あなたは家でお手伝いをしてお金をもらいましたか?

リサ いいえ。

サンデル ではいい成績を取ったらお小遣いをもらいましたか?

リサ そういうチャンスがあったらそうしたかもしれませんが、そういうチャンスはありませんでした。

サンデル ということは、成績が良くなかったということかな~?

リサ ただ、私はいい成績をとったらダンスを続けてもいいと、親から別の条件をもらって、勉強を頑張ることで勉強の楽しさに気付きました。だから、別にそれがお金でもいいのかなと思います。

サンデル 分かりました。ではミツヒロはどうでしたか? 両親から良い成績を取ればお小遣いがもらえましたか?

ミツヒロ 小学生のときに、テストで100点を取ったら500円をあげるよとは言われました。

サンデル それでいくらもらいましたか?

ミツヒロ いや、80点とか90点はいくんですけど、ノーミスで100点はいうのは難しかったので、結局0円でした。

サンデル 残念でしたね~。では自分の子供にはどうしますか? いい成績を取ればおこづかいをあげますか?

ミツヒロ 勉強に教育費は必要だと思いますが、やはりインセンティブとしてお金を使うのは、反対です。子供が勉強の本質そのものの面白さに気付けるように、難しいとは思いますが、勉強は楽しい、将来こう役立つということを教えるのが親としての役割ではないかと思います。

サンデル 分かりました。皆さんも同感だったと思うのですが、ただリサはこう言っていましたよね。生徒たちがまだ学ぶ喜びを理解していない場合には、おこづかいをあげることによって、そのことに気が付くキッカケになるかもしれない。その後、学ぶ喜びを取得するかもしれないと。

●学ぶキッカケ作りにお金を使うのはいいこと?

サンデル つまりリサが言っていたのはこうです。読書習慣が付くまでの最初のころは、1冊読めば2ドル払うのはいいと。お金がそういうきっかけ目的に使われて、結果として習慣が付いて学ぼうという姿勢が出てくる。それで生徒も喜びを見いだすとしたらどうでしょう? ミツヒロはどうかな?

ミツヒロ (少し沈黙)……キッカケだとしても、やはりいつかお金をもらうことから離れていく必要があるときに「あの時はよかった。読めばお金をもらえた」と後ろめたさを残してしまうと思います。勉強は外から何か与えるのではなくて、自身でモチベーションを発生させる仕組みを作る必要があるのではないでしょうか。

サンデル 分かりました。今の意見の食い違いは、私が理解した限りでは、いくつかの異なる立場がありますね。まず、学びに対する究極的な目標では意見が分かれていませんでした。そして、そこに到達するのに「喜び」「内なる動機付け」が必要であるとする考えも同じだったと思います。ただ意見が分かれたのは、お金が果たす役割です。

 お金で悪い習慣を育ててしまうと、悪い教育になってしまう。それともお金を使うことによって、やがてはいい動機に結び付くかもしれない。この点で意見が分かれていました。

 ではさっき紹介した実験について結果を述べましょう。

ニューヨークやシカゴ、ワシントンD.C.では、生徒に勉強のやる気や読書習慣を身に付けさせるために、成績がAであれば50ドル、Bであれば40ドルというように金銭的インセンティブを払うことにしました。またダラスでは、本を1冊読む度に2ドルあげる、という試みをしました。

サンデル 結果は……地域によってまちまちでした。ニューヨークの場合、良い成績の生徒に報酬を払う方法を取りましたが、結果、生徒の成績は上がりませんでした。ところが、本を1冊読めば2ドル与えるとしたダラスでは、地域の生徒が本を以前より読む結果に結び付きました。ただ残念ながら、短い本ばかり読むという習慣にもなってしまったのですが……。(一同苦笑)

サンデル 金銭的インセンティブには、より大きな問題があります。非常に面白い議論でしたね、ミツヒロとリサに感謝します。ありがとう。(会場拍手)

●お金をもらってお礼状を書く子供

サンデル さて、今の議論の中でより大きな問題が浮き彫りになってきました。つまり、お金をインセンティブとして使うことで、どういう教訓を得ることになるのか、習慣を身に付けることになるのか、ということです。

 お金がきっかけで習慣になるのか、本当の動機付けや学習意欲につながるのか。それとも、お金を払うことで間違った教訓となり、自分のためという本来の勉強意欲が湧かなくなってしまうのか。

サンデル ここで、1つお話をします。私の友人が、子供達にお礼状を書くと、お礼状1通につき1ドル払うという試みをしていました。夕食会に招かれた、あるいは贈り物をもらったときに、お礼状を書かせるためです。私もその子たちからお礼状を受け取ったことがあります。そして読むと、無理やり書かされているのが伝わってくるんです。

 妻と私は、そのことについてそれほど悪いことだとは思いませんでした。しかし、子供達が今後どう育っていくのかには関心を持っていました。

 2つの可能性があると思います。1つ目は、お礼状を書く習慣が身に付いて、大人になっても本来の感謝の気持ちを表すためにお礼状を書くようになるんです。その場合には、リサが言うようにお金を払うことで、それがきっかけとなり習慣付けられたと言えますね。本来の目的のためにお礼状を書くようになります。

 2つ目は別の可能性として、ミツヒロが言ったようにお礼状は嫌々書くもので、お金をもらうことでやっと書く気になるという例です。金銭的インセンティブを払うことで、道徳的には間違ったことを教えていたことになります。子供には感謝の気持ちを表すためにお礼状を書くのだということが伝わっていません。

 ではこの2つの可能性の結果どうなるのか。お金を払うことがきっかけで、本来の目的につながる。もしくはお金を払ったことによって、目的が堕落してしまって本来の目的が果たされない。この2つに分かれてしまいますね。

 実はこのことは、子供の勉強意欲、読書習慣、お礼状を書くことだけに当てはまることではないんです。ある社会的に重要な意思決定にもかかわってきた実例がありました。金銭的インセンティブによって、秀でた目的を閉めだしてしまったのです。

●あなたの町で放射性廃棄物を受け入れる?――報奨金を知ったら賛成派が半減

サンデル スイスでは、長年に渡って原子力の放射製廃棄物処理場をどこに置こうか探していました。日本でも今、同様のことが問題になっていますよね。スイスでも同じです。どこの自治体でも、非常に危険性があることなので自分の裏庭では嫌だと思っていたわけです。

 そして1990年代に、スイスの議会では山の中の小さな町が一番安全だとして、候補先に決めました。しかしながら当然、町民の承認が必要でしたので、議会が承認を下す前に町民に対して調査を行いました。「もし議会が決定をして、処理場をあなたの町に置いたら、構いませんか?」と。すると51%の町民は「はい。構わない」と答えました。

 その後再び質問をしました。「この提案を受け入れる代償として町民1人1人に毎年6000ユーロという保証金を払います。そうすれば受け入れてもらえますか?」と。

 この質問に対して、どのくらいの人が「はい。構わない」と答えたと思いますか? ちょっと数字を叫んでみてください。70%ですか? 80%? 90%? 20%?

 ――実は下がったんです。報奨金が支払われると知ったとたんに「構わない」という人が51%から25%に、半分になってしまいました。標準的な経済論理からすると、これは逆説的な結果ですよね。ほとんどの経済学者はこう予測するはずです。「金銭的なインセンティブを与えれば、もっと受け入れてくれる人が増えるはずだ」と。当然そういう論理になります。ではなぜ、実際にはこうした結果になってしまったのでしょうか?

 その理由は何か、思い付く人はいませんか? どなたか説明してもらえませんか?

男性A お金が払われることで、危険性の認識が高まったのではないでしょうか。お金を払うと言われると、そこに対する報償や賠償があるという認識が自分の中に生まれてしまい、危険なものとして心の中に根付いてしまった。だから25%に下がったのだと思います。

サンデル 分かりました。それも1つ可能性のある理由ですよね。報奨金を払うならば町民の人たちは以前よりも本当に危険なのだと思ってしまう。そういう可能性もあります。ただ実際は、スイスの場合は違った理由からだったんです。というのも、事前に「どのくらいの危険性があると思いますか」という質問も町民にしていたんです。すると「リスクの推定については(報奨金の話が出る前も後も)ほとんど同じ」としました。つまり他の理由があったはずです。他に理由が思い付く人、どうぞ。

男性B 6000ユーロと金額を提示されると、もっとそれ以上価値があると思った。だから金額が出た時点で反対の人が増えたんじゃないでしょうか。

サンデル ただ、金額を提示する前、報奨金がゼロのときには賛成票が多かったのですよ?

男性B 政府が払うと言っているので、6000ユーロでは妥協しないという人が増えたんじゃないでしょうか。もっと言えばもっと払ってもらえると思う人が多かったということです。

サンデル 反対票を投じたのは交渉の戦術だったかもしれない、というわけですね。そういう可能性もあるかもしれません。他にはどうでしょう?

ミワコ 最初は善意というか共同体のために人肌脱ごうという気持ちでいたのが、値段を付けられて、おとしめられたような気持ちになったのだと思います。

サンデル お名前は? ミワコですね。今ミワコが面白いことを示唆してくれました。最初の質問のときには「自分の地域や国のために必要だから犠牲になろう」という責任感からでした。それがお金を払うことになれば、もう犠牲でも何でもなくなってしまいます。つまり「共通善」ではなく、お金のためにする堕落感が生まれてしまったのです。町民は全体のためになる犠牲は払うけども、お金のために家族を危険に晒したくないということですね。ありがとうございます。

 今示唆されていることは、標準的な経済理論、すなわち金銭的インセンティブは実際には複雑だということです。というのも、市民的責任感や愛国心、共通善に対してお金を受け取るのは、何だか賄賂を受け取る気持ちになるということです。

 そしてスイスの例ですが、一部の人に「何で気持ちを変えたのですか?」と聞くと、「賄賂なんかもらいたくない」「お金なんかいらない」という声が返ってきたんです。

●金銭的インセンティブが賄賂になるとき

サンデル それでは、金銭的なインセンティブが賄賂と受け止められてしまうのはどのような時なのでしょうか。人々が持つ目的との関連性、スイスの場合は原子廃棄物処理場をどこに置くかでしたが、そこにお金という要素が入ると、ある他の価値観が閉め出されてしまいました。つまり態度や価値、規範は市場では図れない価値がある場合が多いということです。

 ここで別の例を挙げてみたいと思います。

●罰金を課したら、むしろ違反者が増えた

サンデル イスラエルのある保育所では、どこの保育所でも抱えているある問題がありました。子供のお迎えの時間に親が遅れてくるのです。保育士は遅れてくる親が到着するまで、待っていなくてはなりません。

 この保育所では、経済学者の知恵を借りてこの問題を解決しようとしました。遅く来た親に対して、罰金を科すというものです。どうなったと思いますか? 大きな声で言ってみてください。

サンデル 遅く来る親が増えた? 本を読んだんですね(笑)。あるいは自分でそうではないかと思ったのでしょうか。

(※編集注)本講義の内容は5月18日に発売したサンデル氏の近著『それをお金で買いますか――市場主義の限界』を基にした内容も含まれており、スイスの町の放射性物質受け入れ問題についても触れられている

 そうです。遅く迎えに来る親の数が増えたんです。標準的な経済学の考え方を当てはめると、これは逆説的ですよね。遅刻に対して罰金を科すと減るはずが、むしろ逆のことが起こってしまいました。スイスの町で起きたことも経済学の論理と逆でした。

 遅刻する親は、以前は保育士に対して「迷惑を掛けている」そして「遅刻しないようにしなければ」という義務感があり、罪悪感を感じていました。しかし罰金を科されるようになって、まるでこの罰金は手数料のようだと親は割り切れるようになってしまったんです。サービスのためにならお金を払っても構わないと思うようになってしまったのですね。金銭的なやりとりの関係になったことで、ベビーシッターを雇うのと同じになってしまったわけです。

 このような例を見て、そして今までの議論の中で何が分かるでしょうか?

●金銭をやり取りすることで本質が変化するものとは

サンデル 標準的な経済理論において、市場は中立的なものであるという前提に立っています。すなわちその市場で取引する物自体が市場を汚したり、損なったりしないものとされています。この論理は、物質的な物ならばそうかもしれません。例えば薄型テレビやトースター。私が自分で買う場合と、誰かが私への送り物にしてくれる場合、どちらも同じ薄型テレビですよね。

 ところが、このことは市民という価値や共通善、あるいは遅刻しないように頑張ろうとする保育所への義務感や責任感の場合には当てはまらないかもしれません。先ほどの結婚式での祝辞の例に戻ってもいいです。つまり、市場やお金が導入されることによって、その対象物の性格そのものが変わってしまう場合です。

 とすれば、どこで市場が公共善のためになるのでしょうか。そしてどういう場合にはお金は使ってはならないのでしょうか。この議論は対象物ごと個々に考えなければならなりません。その対象物がどういう目的を持っているのか。そして、どういう姿勢、態度、価値観、規範が確率されるべきなのかです。

 例えば先ほどの議論に戻って、ダフ屋の問題です。レディー・ガガのコンサートチケットと同じように、医師の予約券は売り買いしていいのかなど、私たちは対象物の意味を考えました。

●「市場経済」と「市場社会」を区別せよ

サンデル これは多くの民主主義、資本主義社会で見られることですが、この30年の間、徐々に世の中が「市場経済」から「市場社会」に移り変わってきています。米国もそうですし、イギリスでも、欧州のいくつかの国でもそうです。

 ですが私の印象では、日本はまだそこまでは変わっていない、いわゆる欧米流の資本主義型社会ほど、日本では資本主義が根付いていないようです。しかし少しそういう傾向に動きつつあるように思います。ですから、市場におけるお金の役割について議論する場合の課題は、皆さんが置かれている社会によって違ってくるかもしれません。

 つまり私が言いたいのは、市場経済と市場社会を区別をしなくてはならないということです。違いはこうです。市場経済というのは、効果的な生産活動を運営するに当たって非常に効果的な1つの手段です。世界中の国が繁栄や富をもたらし、経済も成長してきています。

 一方、市場社会というのは、生活の隅々までお金や市場的価値が浸透し、全ての物が売り買いされてしまう社会のことです。人々の生活や市民生活、公の場での生活、どこでも売り買いできるものばかりが商品化されています。

 ですから市場の問題は、経済だけの論理や課題ではありません。われわれがどういう生き方をしたいのかにも関わってくるということです。

●お金で売買するもの、しないものを議論する場を持とう

 ここで最後に質問したいと思います。

今の日本では、お金はどれほどの役割を果たしていると思いますか? あなた自身が思う以上にお金がかなり大きな役割を果たすようになっている、まん延しているという人は「はい(赤)」を、そうではない、それほどお金は自分が思うほど役割を果たしていないという人は「いいえ(白)」を上げてください。

サンデル かなり面白い結果ですね。どうやら半々のようにも見えますが、少し赤の方が多そうな気もします。ということは、皆さんも気が付き始めているのかもしれません。自分が思う以上にお金が役割を果たしていて、そしてそれがいけないと思っているのです。

 ではお金が市場に果たす役割は何が適切なのでしょうか。これはわれわれ民主主義に則った市民が一緒になり、互いに議論をし尽くすことによって決めるべきでしょう。その際には、互いに反対意見を公の場で言い合うことも必要です。何か市場の適切な役割なのか、われわれは議論しなくてはなりません。

 われわれが大事だと思う社会的な財は何なのでしょうか。教育、健康、個人的な対人関係、市民社会、町の名前、市民としてのアイデンティティー。こういったことを公に議論していくことが必要です。

 市場という質問は、究極的には私たちが「どうやって一緒に生活を送っていきたいのか」「どういう生活を送りたいのか」、私たちが暮らす社会として、何もかもが売り買いの対象となる世界に暮らしたいのか、それとも道徳的あるいは市民的なものとして、市場では評価できない、お金では売り買いできないものがある社会の方がいいのか、ということです。

 今日の議論を聞いていますと、私は楽観的な気持ちになっています。ここにいる皆さんは、こうした民主主義的な議論をする能力が十分にあるからです。そして、もし世界中の民主主義の中で今日のような議論が公の生活の中心として行われるのであれば、それはとても重要なことだと思います。民主主義が復活できるでしょう。どうもありがとうございます。



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